2012年6月26日 星期二

3D電影

昨天去看了一部3D電影,文溫德斯的Pina。


這是我接觸的第一部3D電影,也或許是最後一部了。


兩個原因,一個,這個片種(較藝術較文氣的)與表達類型(或者說方式)並不適合3D,而我大多選擇進戲院看這樣片種的電影。另一個,我不喜歡3D電影。


Pina的舞蹈劇場,或者任何一個表演團體的演出,如果想要用這樣的方式模擬,那幾乎是全然地徒勞,甚至有點妄想了(我並不是指說溫德斯的電影想這樣嘗試,它不是)。表演就是表演,它作為一種藝術類型,自有其無可比擬的特性,要說服觀眾用3D手法拍攝下來的電影可以模擬逼近於表演的現場,這無疑是很荒誕不經的,而且可笑的。好比相片之於所拍攝的當下,我們身處當下的感受是綜合性,是五感並兼的和不單單只是意識層面的,而照片只是對真實的擬仿,它趨近,但絕不等於那個當下,甚至連趨近都是一種概念先行的講法,相片其實就是相片,它能一定程度提示拍攝的當下,被稱作時空的切片,但它不是當下,它永遠不會是。


3D電影比之照片對於真實的記錄就更甚而遠之了,它更像是一種形式的詮釋與表達,卻一直被標榜着說它是讓觀眾體驗更徹底真實感受的一種電影。電影,看電影,是為了體驗真實嗎?就我對電影的理解並不完全是,就算是,如果用觀看3D製成的電影還更深地體驗真實,這無疑是很迂腐的自欺行為,這種說法也是很概念先行的。對我而言,3D電影它就是電影發展出來的播放效果,是觀眾選擇觀看電影的一種可能性,僅此而已。


在經歷了昨天的觀影經驗後,我可以很安然地選擇以後不看有3D效果的電影,因為如上所述,一來像Pina這樣的電影我認為3D不是一個適合它的類型,二來,對於電影看電影這件事,我會坦白說,我真的沒這麼喜歡3D電影。


自己的房間.新店.2012

2012年6月24日 星期日

平躺,躺平!低趴,趴低!

近半年,俗氣如我,每日出門只為了賺得生活所需。其餘時間,能夠的話,便在日常生活的瑣事中消磨,如果不能,連消磨於瑣事的機會都得不到。


可人人不都是如此,我又想要有什麼不同呢?我也不曉得,祇徹底明白知道,我是一名藝術創作者。過上述那種生活,我感覺我像被彈指間催眠了,行屍走肉,我的頭很糊很昏沈。


藝術創作者又如何?還不是得向世界低頭,向國家、社會和某幾個或者大部份的個人低頭?對,十分正確的想法,可是我就是厭惡被催眠的感覺,無論是人家催眠我還是我屈服了自我催眠。(很抱歉,你沒有名,不是風頭人物,誰理你呢?)


閹割,閹割,當別人拿著利刀的時候千萬不要先自我閹割,留一點尊嚴給自己,屬於自己的血肉,不需要這麼著急凌遲,表現給誰看哪?我需要哈巴狗一樣對這個沒信用、無能又不老實的世界獻殷勤嗎?不要吧?噁心!


今年,命運的巨腕很勤奮且持續不斷地,費了大勁地強壓我平躺,我起初察覺到這種狀況時很驚訝,當然要趕緊抵抗,我使力抵抗!換來一句叱責:躺平!那麼我換招數,虛與委蛇地低趴怎麼樣?肏你媽的!給我趴低,你沒資格好好站著!


這就是我,被壓着打的我,可笑且悲哀的我,宛如北野武《龜與阿基里斯》戲中描述一般的我。


狀況一。「給個機會,這樣弄我就沒意思了,不是嗎?」「誰理你,你要怎樣你家的事。」「那我到底要怎樣才不會這樣?你說,做不做我考量。」「誰理你,你要怎樣你家的事,也可以回去做工,省事,不會收到你一堆廢紙。」「很好,你等著,不要讓我爬起來。」


平躺,躺平!低趴,趴低!


狀況二。「你工作要這樣,那樣,這樣,然後那樣,我們要拍的是這樣,那樣,這樣,然後是那樣,預算是這樣,那樣,等級很高,是這樣,然後是那樣。」過幾個月「完蛋!拍,不拍,沒錢了,開會,完蛋,減縮吧。」幾個月後「糟糕,拍,延一點拍,不拍,不夠錢,糟糕,開會,轉向一點減縮一點,拍吧。」然後「你自己看你的時間作調整,開會,那這樣很好了,大家的時間都不會被卡到(是這樣嗎?),那今天就這樣吧,繼續拍下去。」習題依舊半數無解中,實帳像是空帳。


平躺,躺平!低趴,趴低!


哈,哈,哈,真是大笑三聲,我人的現狀,哈,哈,哈,可笑至極。


你們這些傢伙,是想要逼死誰啊!你們通通給我等著,就算螻蟻一樣的創作機會,我帶著夥伴與同路人們努力幹,有朝一日讓我們爬起來,我會把這之中所有的屈辱都牢記,我一點都不要忘記。


自己的房間.新店.2012

2012年6月21日 星期四

橋本忍

橋本 忍(はしもと しのぶ、1918年4月18日 - )は、日本の脚本家、映画監督。男性。兵庫県神崎郡鶴居村(現・神崎郡市川町鶴居 )に生まれる。脚本家の橋本信吾、橋本綾は実子。


家業は小料理屋。芝居好きの父親から影響を受ける。中学校卒業後、1938年に応召。鳥取の連隊に入隊(階級は一等兵)するも粟粒性結核に罹り永久服役免除され療養生活に入る。療養所にて隣にいた兵士の読んでいた『日本映画』という映画の本を読みシナリオに興味を持つ。隣の兵士に「日本で一番偉い脚本家は誰か」と訊ねたところ「伊丹万作」と返ってきたため、伊丹本人に作品『山の兵隊』を送り、指導を受ける。伊丹死去後、上京し、伊丹夫人より佐伯清監督を紹介される。


1949年、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を書く。伊丹死後、寡婦が伊丹の手元にあった橋本脚本を佐伯に渡し、黒澤明がそれを譲り受ける。黒澤は『藪の中』の脚色作品に注目、黒澤の助言により芥川の同じ短編小説『羅生門』も加えて完成。この脚本を基に、翌1950年に黒澤が演出した映画『羅生門』が公開され、橋本忍は脚本家としてデビューした。同作品はヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞するなど高い評価を受けた。


以後、黒澤組のシナリオ集団の一人として、小国英雄とともに『生きる』、『七人の侍』などの脚本を共同で執筆する。しかし黒澤映画への参加は1960年の『悪い奴ほどよく眠る』で終わっており、あとはその10年後に『どですかでん』で一度だけ復帰する。その後、橋本は日本を代表する脚本家の一人として名声を高める事となる。代表作に挙げられる『真昼の暗黒』、『張込み』、『ゼロの焦点』、『切腹』、『霧の旗』、『上意討ち』、『白い巨塔』、『日本のいちばん長い日』、『日本沈没』などの大作の脚本を次々と手がけ、論理的で確固とした構成力が高い評価を得る。


1958年、KRT(現・TBS)の芸術祭参加ドラマ『私は貝になりたい』の脚本を手がける。上官の命令で、米兵捕虜を刺殺しそこなった二等兵が、戦犯として死刑に処せられる悲劇を描いたこのドラマは大好評となり、芸術祭賞を受賞した。翌1959年自身が監督して映画化し、監督デビューも果たす。しかし、作品中に登場する遺書が加藤哲太郎による『狂える戦犯死刑囚』のそれと酷似していたことから、加藤に原案者としてのクレジットを入れるよう要求されるも、橋本は『週刊朝日』からの引用であると主張し拒否、その上「このまゝ沈黙して呉れるなら十万円を出します。それは私のポケットマネーであって原作料ではない」と突き放したとされる。その後も加藤に連絡なく再放送が行われたことから、加藤は刑事告訴状を東京地検に提出したが、起訴はされなかった。


1973年、これまで配給会社主導で行われていた映画制作の新しい可能性に挑戦するため、「橋本プロダクション」を設立。松竹の野村芳太郎、東宝の森谷司郎、TBSの大山勝美などが参加し、映画界に新風を吹き込む。1974年に第1作として山田洋次との共同脚本で『砂の器』を製作。原作者の松本清張に原作を上回る出来と言わしめる傑作で、興行的にも大成功をおさめ、その年の映画賞を総なめにした。


続いて1977年に、森谷司郎監督、高倉健主演で『八甲田山』を発表し、当時の配給記録新記録を打ち立てる大ヒットとなった。僅か3ヵ月後に松竹で公開された『八つ墓村』(脚本担当)もこれに迫る数字をはじき出し、この年の橋本はまさに空前絶後の大ヒットメーカーぶりを示す。但し「八つ墓村」は、合理的な謎解き映画として構成された東宝の金田一ものに比べてオカルティズムへの傾斜が顕著であり、橋本の作家的特質を如実に示している。以後、1980年代まで、脚本執筆、映画制作と精力的に活動した。


しかし1982年、脚本だけでなく製作、原作、監督もこなした東宝創立50周年記念映画『幻の湖』が、わずか1週間で興行打ち切りと言う憂き目にあう。その後2本の脚本を書いた後は、体調不良もあり事実上引退した状態であった。しかし体調回復に伴い、2006年に黒澤明との関係を語った自著『複眼の映像 私と黒澤明』を発表した。そして、2008年に中居正広主演でリメイクされることになった劇場版『私は貝になりたい』で、自らの脚本をリライトすることになった。


2000年、故郷である兵庫県市川町に「橋本忍記念館」がオープンした。


(引述自維基百科http://www.wikipedia.com/

2012年6月3日 星期日

選舉精神

我是一個台灣人,擁有投票權利十年,我的國家制度是民主制,但是,我沒有任何選舉精神。


如果要探究為什麼我說沒有,我會說,我不明白為什麼?


任何人了解嗎,選舉的精神?


我憑直覺(當然這不公平),會覺得我的國家傳達給我,它選舉了,時常,時常,但沒有絲毫選舉的精神。


那為什麼時常舉辦選舉?選舉為數可觀的人民代表用意是什麼?


我其實也不清楚,或許是代勞吧估計?因為我們在工作與生活中都太忙,需要選一些人,勞駕他為無暇的我們辦事?(是嗎?)


可也不是,我感覺我從領出生證明以後,國家與我的關係是半強迫的,我只有選擇離開去另一個國家的選項,沒有完全不要國家的選項。


但是選擇要,我要個國家,我也不可以選擇不要總統、不要委員、不要鄉長和里長、不要人管我。都有的,都有人有個位置管我。


我能選一點就不能選另外的一點,完全是半強迫式的。


電影,我看了美國電影《選戰風雲》。


故事背景設定在民主黨總統候選人的初選白熱化階段,講幕僚群與候選人,講背叛與認清現實,人心偏差的成長。


看完電影我就想:為了一場選舉人人淨顯露壞習氣,那還選什麼?烏煙瘴氣的。


是呀,那還選什麼?烏煙瘴氣的。可是就這樣,選舉,好像就那麼烏煙瘴氣。


所以哪裡來什麼選舉精神?選給誰看?選給誰⋯用?沒有用吧。


台灣,中華民國呢?時常吹噓自己是全亞洲第一個民主國家(這值得吹噓嗎?)的這裡,選舉精神可有?尊重、禮讓、溝通、信任、循規矩、誠實表達,可有?


跟美國一般烏煙瘴氣吧?競相比較誰玩得過誰,誰是王。文明(這個落伍的名詞)式的械鬥,鬥陰險與算計。


所以我,如果我算是民主國家的國民,我是感覺不到任何選舉精神的,國家和社會乃至個人,一絲毫都感受不到。


所以,我的國家,就我的武斷,它沒有選舉精神。它死癱著,為數可觀的人民代表,他們高學歷人面廣,他們也很懂用文明的方式彼此作械鬥,為選舉而選舉,可是他們也跟我一樣,不懂,為什麼我們的國家,不能讓我們感受到選舉精神。


咖啡廳.台北.2012